(長坂) 京都 2016  〜源氏物語VS枕草子〜

京都は我々に“日本人として生きよ!”と教えてくれる。


 写真は、蘆山寺(ろざんじ)に咲く萩の花である。このお寺は京都御所の東側に位置し、コジンマリとした静かな雰囲気がある。なぜ、このお寺を紹介したかと言えば、源氏物語の作者“紫式部”が住んでいたからだ

源氏物語と言えば西暦1,000年ころの作品なので、1,000年も昔のことだが、建物や咲く花・住む人は変われど場所は不変である。

訪問したのは2015年7月の暑い日だったが、境内に座り花と枯山水の庭を眺めていると心地よい風が吹いてきた。

京都にくると、日本人として生まれて良かったとつくづく感じる。


さて、今回のお題は平安文学を代表する2大作品の書かれた背景を紹介したい。
平安時代=藤原時代と言われるように、藤原氏が政治の実権を握ることができた。なぜか言えば、自分の娘を天皇に嫁がせ子供を産むことで血縁関係が生まれ、“おじいちゃん”として権力を手にした訳だ(これを外戚政治という)。子供を産むためには、天皇が娘の部屋に足を運んでくれないと事が始まらない??? 時代劇の大奥と同じで沢山の美人がいるし(写真)、今の時代なら“スマホで顔写真つきメール”でアタック可能だが、何せ“祟り”“お祓い”の平安時代である。

天皇が注目する仕掛けをすることで、娘の部屋にくる回数を増やす。”


 この仕掛けが『源氏物語』であり『枕草子』だった。清少納言紫式部天皇の妻に仕える、今でいう超売れっ子作家であり、大袈裟に言えば命を懸けて作品を作り天皇を夢中にさせたに違いない。天皇の子供を産むことは一族が出世できるかの死活問題、すなわち貴族同士の代理戦争の場なのだ。


因みに表が当時の状況である。夢中にさせる相手は一条天皇(66代)。

お抱え作家 作品
藤原道隆 定子(ていし) 清少納言 枕草子
藤原道長 彰子(しょうし) 紫 式部 源氏物語

 
順番で言えば以下である。(系図
① この時代の藤原一族の後継者は、藤原道隆(長男)であり、娘(定子)を天皇の妻として送った。清少納言の活躍もあり?3人の子供を産んだ。
② 道隆が長生きして“おじいさん”として君臨すれば何も起こらなかったが、42歳で早死にしてしまった。
③ 後継者争いが起こった。道隆の弟:道長と、道隆の長男:伊周(これちか)であり、道長が勝利した。負けた道隆一族(清少納言サイド)は、日の目をみることはなくなった。(日本史に残る後継者争いは、このパターンが多い。応仁の乱も秀吉の時も。。。)
④ 勝利した道長は、こともあろうに自分の娘(彰子)を天皇に妻として嫁がせた。これにより、天皇に正妃が2人いるという前代未聞の事態となった。
紫式部の活躍?で彰子は2名の男子を産んだ。道長は61歳まで生き“おじいさん”として君臨し、2人の孫を(68代)後一条天皇・(69代)後朱雀天皇にした。


400年続いた平安時代で、藤原道長の頃が全盛期である。”雅”が似合う時期にに2大文学が出たというのは、偶然ではなく必然かもしれない。

                                          続く