(長坂) 京都 2016  〜今の京都を作った人たち〜

京都検定の試験対策講座に参加すると、講師が冗談まじりに話すことがある。


京都は2つの戦争を経験した。
『先の戦争』というと、応仁の乱(1467年)
『昨日の戦争』といえば、蛤御門の変(1864年)
 〜写真は昨年のNHK大河ドラマ「花燃えゆ」の蛤御門の変にて、久坂玄瑞を演じる東出昌大


京都は第二次大戦で殆ど空襲を受けずに済んだ。しかし、都であるがゆえに応仁の乱や蛤御門の乱で街は壊滅された。上述の話は、マスコミなどが面白おかしく語ったことからも知れないが、2つの戦争から立ちなって今の“京都”がある。人間(会社もそうだが)、失敗や災害を乗越えることで一回り大きく、そして強くなる。今回は、この京都を復興させた立役者(キッカケ)を2名紹介したい。


町衆
『先の戦争』で、京都はほぼ焦土化したらしい(東京空襲と同じ)。当時残ったのは「室町通り」だけという説もある。そう言えば、ここを歩いて思ったことがある。
“何か違うな。。老舗の和菓子屋や、建物が多い。。。」


さて、『先の戦争』から街を復興させたいと立ち上ったのは町衆(商工業者)である。彼らは、中断されていた祇園祭りを復活させた(西暦1500年の話)。今でも祇園界隈に住む人はいう。
祇園(祭り)は京都の鏡どす」

〜写真上は7月17日の祇園祭山鉾巡行風景。美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」といわれるほど歴史的な価値がある。この山や鉾は、京都の各町内で運営・保存されている。メディアではこれが祇園祭りとなってしまうが、実際は7/1〜31と一か月ある。〜

2012年に見学したが、酷暑のなかで皆が一生懸命である。まるで「歴史」という重い物体を引っ張っているようで、思わず
“頑張れ”と何度も声を掛けてしまった。

『京都人の心意気』を知るためにも、一度は見学することを勧めたい。



槇村正直(第2代 京都知事
 
『昨日の戦争』明治維新を引起し、東京が都となり天皇・皇后までいなくなった。御所は狸や狐の住処となったらしい。
“1,000年の都に終止符が打たれた”


京都の人々は元気がなくなってしまった。これではいけないと復興に尽力したのが槇村正直である。 〜写真は、NHK八重の桜で槇村正直を演じる高島政宏〜
彼は就任中、
1.新京極通りをつくって商売を繁盛させた。
2.全国に先駆けて小学校を作った。
3. 祇園の芸妓・舞妓の舞を公開させた(都をどり
〜写真は“都をどり”の風景。2014年に見学したが、洗練された踊りに京都を感じた。これも一度は見ておきたい。2016は4/1〜30開催。料金は抹茶付で4,500円(たぶん)。


人間が元気を取り戻すために、まず必要なのは『楽しさ』かもしれない。



プラス1  祇園祭りの起こり
 今は科学技術が発達しているので、病気や異常気象の多くは原因解明できるが、昔は俗に言う“たたり”とか、“神の怒り”によって起こるとされていた。笑ってしまうが仕方ないことである。
 
平安時代(869年)、京都を中心に疫病(伝染病)が流行した。占ったところ牛頭天王(ごず:仏教の神様)の祟りであることから、当時の国の数66か国に準じて長さ二丈(6m)の鉾66本を立て疫病退治の神事を行った。 一般的に“御霊会(ごりょうえ)”と言われ、祇園祭りも明治までは祇園御霊会と呼ばれた。
これで疫病は治まったそうな。。。(本当かな??)


そもそも御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったらしい。当然の話である。そのため祇園祭は真夏の祭となった。869年だから今から1100年以上昔の話であり、中断された時期はあったにせよ1000年以上続く、京都人の心の拠り所である。
.〜上図は狩野永徳洛中洛外図屏風(1574年)に描かれている祇園御霊会の様子〜