(長坂) 京都 2016  〜なぜ“京都”と呼ばれているか〜

“京”は左京の京、“都”は天皇が住んでいる場所


 京都はその昔「やましろ」と呼ばれた。江戸が“東京”になったと似ている。細かく言えば、「山代」→「山背」→「山城」と、“しろ”の漢字が変わっている。

 平安京唐の都長安、今の西安)のパクリとして造られた。現在の左京区右京区の右(東)にあるのは、天皇の住居から南を正面として、左を左京としたからである。(右図の大内裏だいだいり)が天皇の住居)


 さて、風水の上では完璧だったが、住んでみると右京は湿地帯が多く、マラリアも発生するなどの事情から人々は左京へと移動した。この結果、右京・左京は、巨大な左京となってしまった。そして、いつしか都に行くことは左京に行くこととなり、略して“京”が誕生したのである。今でもそうだが、京都の観光地は、清水寺付近・祇園・四条など左京区に多く、右京(西京極陸上競技場の北東あたり)には目新しい歴史的観光スポットがない。この辺りをドライブして思うことだが、
「ここって本当に京都だろうか? まるで知立だな。。」


2)人が集まれば街は栄える。
よせば良いのに、当時の御公家さんは左京を「洛陽」、右京を「長安」と呼んだ。これも中国のパクリである。時代劇で京都に行くことを「上洛」というが、この洛は洛陽からきている。
 これから推測すれば、京都の“洛南高校”という進学校は、さしずめ京都南高校である。


〜左は洛中洛外図屏風(国宝)に描かれた京都の華やかな様子。豊臣秀吉が洛中を定めてから、この手の屏風が沢山制作された。〜


3)どこまでが京都か
 その昔 戦争(応仁の乱)で荒廃した京都を立て直した男がいた。豊臣秀吉である。彼は京都の範囲を決めるために、土塁を作り明確にした。“御土居(おどい)”と呼ばれる土のフェンスである(全長22.5㌔)。今でも北野天満宮の裏手(写真)などに残っている。そして、御土居の中・外を
“洛中” “洛外”

と呼んだ。


プラス1 御土居餅 
 写真は、上述に因んだ“御土居餅”である。金閣寺から北へ1キロにある光悦堂で販売している(130円/個)。店は昔からある田舎の饅頭屋であるが、この餅が本当に美味い!

 京都検定のテキストには、「京菓子の由来と種類」と題して30種類程の京菓子が紹介されており、甘党の私は全て食べた。その都度◎・○・△で評価するのだが、文句なしに◎であった。(因みに◎は4個)。あまりに美味かったので2度足を運んでしまった。店は1897年創業だから100年は経過しているが、京都では100年は老舗とは言わないらしい。(200年以上お続いたら認められる?) なお、この店はNHKブラタモリ〜京都〜(2015.1.6)でも放送された。


歴史ある場所を歩くのも京都の楽しみだが、美味いものに出合うことも、また楽しい。