会長の ”東北震災地を訪ねて(後編)”   原発を行く 7

南側 侵入限界へ

写真が、一般車両侵入限界地点である。第1原発を中心にして円を描く訳だから、ここ国道6号線の南側もその一か所に過ぎず、他にも多くの侵入限界がある。もちろん、ベルリンの壁(注1)のように面積全てを囲むことはできないため、主要道路には警備員が立ち、狭い道は柵で侵入できないようになっているかもしれない。しかし田畑や山林からの侵入は防ぎようがない。ある意味、陸続きの国境と同じだ。



  JR富岡駅の衝撃が覚めない中で北上すること5キロ。とうとう現れた侵入禁止区域の看板。場所は夜ノ森(よのもり)であった。ここは福島第一原子力発電所から南西6kmに位置する。ネットで調べると、桜の名所となっていた。写真はライトアップした桜並木である。どこか豊田高専正面の桜並木に似ている。地元では、毎年夜桜を楽しみにしていた人も沢山いたろうに。。。

 さらに1キロほど行くと、通行通行停止の看板が見えてきた。検問である。
“これが検問か。それにしても沢山の警察官がいる。”

これ以上は進めないことは分かっているし、第2原発での一件もあるし、何食わぬ顔をして警察官の前で止まった。


(警察官) 何をしに来ましたか
(私)   ドライブで来ました。
(警察官) (苦笑いしながら)Uターン願います。
 (私)   分かりました。

警察も淡々としていた。私みたいなドライバーが他にもいるようだ。おそらく日に数人は。、。


 『警察に止められるまで行ってみる』をモットーとして訪問した訳だが、いよいよ止められた。ここで本日は終了である。
“さぁ、Uターンして今日の宿泊先まで帰ろう”


 さばさばした感じだったが、ついつい。。。
“もう2度にくることはないだろう。見たいものがあれば行こう。”

懲りもせず、帰路の途中で寄り道をした。民家はご覧のように閑散としている。屋根にはビニールシートが被せている。地震の影響とは考えにくい。
“家は住んでないと、ダメになる”


  次に向かったのは、Jヴィレッジである。ここは、日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターであったが(1997)、原発事故に伴いスポーツ施設としては全面閉鎖し、国が管理する対応拠点となっている。民間の施設を借用することは難しいし、大勢の復旧作業者を収容する場所も限られてしまう。陸前高田第1中学校の仮設住宅もそうだが、公共施設を利用するしか手段がないのだ。
Oさんからは、車窓からにしてほしいとアドバイスがあった。この理由は下記である。

“人の不幸を見学する”のでなく、“人が原発事故の復旧のために一生懸命働いているのを、興味本位で見学するのはいけない。”

それでも、見るなと言えば見たくなる。2度と来れないと思えばなおさらのこと。こっそりと、Jヴィレッジの中に入っていった。疲れた様子の作業員が見えた。仕事に出かける車と出合った。


 “ここは、ちょっとやばいかな。。”
すぐにJヴィレッジを後にした。


続く


(注1) ベルリンの壁

  第二次世界大戦のドイツ降伏(1945)により、国は西ドイツ(アメリカなどの資本主義)と、東ドイツソ連(今のロシア)などの共産主義)に分断された。一方で、首都ベルリンだけは米・英・仏・ソ連によって分割占領することになったが、ここは東ドイツ内にあった。戦争が終わり平和な生活が戻ると、東西ドイツ間には“差”が生じる。結果として、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだため、東ドイツは住民の流出を防ぐべく壁を建設した(1961)。上記 地図の吹き出し西ベルリンの周囲360度全て壁で覆ったものを”ベルリンの壁と呼ぶ。
 やがて、時は流れ1989年に壁は壊され東西ドイツは平和的に統一されることになった。
ベルリンの壁東西ドイツの国境と勘違いする人がいるが、首都ベルリンの話である。)