会長の”次男の大学受験”                                                                第2章  潮時 4

I 君 その2

 人間誰しも憧れる人に近づきたいと思うもの。次男はI君が建築科卒業ということもあり、自分も大学で学んで彼のようになりたいと思ったのかもしれない。私は高専在学中に建築の学生を見て、“まずセンスが必要”だと感じているが、どう見ても(私の子供なので)次男にセンスがあるとは思えない。そこでI君に相談してみた。

(私)   おい、I。次男が建築に進みたいと言っているが。。。
(I君)  長さん、そりゃあ止めた方がいいですよ。
(私)   何でだ。
(I君)  だって、日本の人口は減り続けるんだから、家を建てる件数も減りますよ。
      競争が激しくなるし、薦めないですね。
(私)   そうか。
      ・・・・
(I君)  どうしてもやりたいなら最初から海外を目指すか、日本なら意匠ではなく工学なら。。京大の建築科なら良いかも。
(私)   京大かぁ。
~写真は名古屋市美術館黒川紀章設計(京大卒)~

 皮肉なことに、この時 長男が京大1年生となっていた。されど建築ではなく土木である。一方の次男は、国立大学なんか遥かに届かぬ成績だった。まして京大建築など “寝言”か “タワゴト”である。
結局 I君からのアドバイスを話したが、カッコ良さを追求する次男に真意は届かず、高校2年生(2012年元旦)の茶話会で同じ話をしてもらった。やっと納得したらしく、これ以降、建築家になりたいとは言わなくなった。そして機械工学科に進んだ訳であるが、良かったか悪かったかは今後のお楽しみである。
 I君には、株や進路相談までもお世話になった。これからも次男を応援してやってくれ。

 

志望校 7月模試 11月 1月
琉球 C C C
三重大 D E
名工大 E E E

表が次男の2年生の7月模擬試験の結果である。琉球大学工学部建築の合否判定はランクCであった。Cとは合格率40%〜60%である。
 (私)   お前、琉球大学はCランクじゃないか。
 (次男)  すごいだろ、俺。
(私)  どこが凄いんだ、何もしてない癖に。そんなに簡単か。
(次男)  知らん。

 そこで、よくよくデータを見ると志望者数が20名程度と極端に少なかった。偏差値は母集団すなわちNが大きくないと意味をなさない。志望者の中で、たまたま真ん中の成績に過ぎなかっただけで、本番時の判定にはならないことが分かった。
  “まだ、琉球大学は志望者が少ない。”
これが唯一の情報だったかもしれない。
 
続く


プラス1 沖縄豆知識
 1975年7月20日 沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開催された。今の学生には想像できないが、日本が敗戦となった1945年から沖縄はアメリカ統治下におかれていた。そして、1972年5月15日晴れて本土復帰を果たしたのだった。沖縄海洋博はその3年後で、私は高専3年生だった。
なお、この年に我陸上部は3年ぶりの東海地区優勝を果たした。これにはドラマがあった。最後のマイルリレーを残して鈴鹿と豊田は同点だった。リレーに勝った方が優勝という一騎打ちである。第1走者の私に皆の期待が集中した。そして、私が無事にトップでバトンを繋ぎ宿敵“鈴鹿”を倒したのである。大野キャプテンの胴上げ。。。歓喜の渦に包まれたのを思い出す。

 さて、“さて”である。今の陸上部なら、
 “さぁ、この波に乗って全国大会でも頑張ろう!” 
かもしれないが、当時は
 “さぁ、これで夏休み。ご苦労様。全国大会に出場する諸君は頑張ってくれ”
であった。全国大会に向けた練習は盆休み前から2週間程度。それまでは自由行動だった。この期間を目一杯使って、早くも翌日の船に乗り沖縄海洋博を見に行った。20泊の貧乏?旅行である。(この話は別の機会に)
 “全国大会に出場するというのに自覚が無さすぎる。”
 “そんなことなら鈴鹿に出場させた方が良い”
と叱られそうだが、
 “あの頃はあれで良かった。 ナンチャッテ”  

ちょっと会長の面目が潰れたかなぁ?


 因みに、沖縄海洋博の企画を進めたのは、元経済企画庁長官:堺屋太一さんである。彼によれば
“「あれ」があるから沖縄へ行く、「あれ」を創れ”

と指導を受けたらしい。当時の沖縄イメージは、“戦争の爪跡”であり“米軍基地”だった。
「海-その望ましい未来」をテーマとして進めたらしいが、私も沖縄に行き海の美しさに驚いたのを思い出す。
あれから35年、今や沖縄は、美しい海・リゾートである。


参考までに、今のハワイを創りだしたのはプロディースの力である。なぜなら、ハワイは1920年代まで亜熱帯農業と海軍基地だけの諸島だった。それを大観光地にするため、ハワイアン音楽のリズムを創り、ムームーのファッションを開発し、フラダンスの演技を考えだし、ワイキキに砂浜を造った。岬の山を『ダイヤモンドヘッド』と名付けて『絶景』と宣伝した。全て人知の創造である。
 この事実を知って私も驚いた。15年前にハワイを訪れたが、ハワイアンは原住民の民族音楽だと思っていた。
人間の知恵は凄いと改めて思う

〜写真はワイキキビーチ・中央の山がダイヤモンドヘッド(絶景に間違いない)〜