(長坂) 京都 2016  〜お寺の話  “信長”〜 続編

天下布武(軍事) VS お寺(宗教)

 写真は浄土真宗の総本山 西本願寺阿弥陀堂である。行くと分かるが、強烈に大きく総本山の風格を備えている。おまけに拝観無料である。観光客への対応が親切で、ケチケチしてない。どうぞご自由に。そんな雰囲気が好きである。ここも一度は行くと良い。


 ついでだが、京都三閣の1つ飛雲閣(写真)がこの敷地内にある。閣(楼閣)とは2階建てなどの上に伸びた建物であり、金閣(寺)・銀閣(寺)と併せて三閣と呼んでいる(いずれも国宝)。予約すれば無料拝観できる。


さて、今回のお題だが、「人間」 は昔から次の3つのものに支配されてきた。 「政治」、「軍事」、そして「宗教」である。

信長は「天下布武」、すなわち武力で国を治めると公言し戦ばかりしていたが、お坊さんとの関係は上手くいっていた。しかし。。。。
“どちらも力を持ち過ぎてしまった。”


本願寺の分派である一向宗の熱狂的な信者の中から、独立して一向宗の国を作ろう!、国に納める多額の 「税」 を 「お布施」 とする事で、さらなる仏の加護を得ようとなった。怖い話である。日本史でいう「一向一揆」である。実際に加賀(金沢市)では90年間、百姓の持ちたる国が存在した。
 〜写真は北陸で布教に努めた蓮如(8世 法主)。この人のお蔭で?本願寺は大きくなったと言われる。〜
② これを心配した信長の本願寺への要求はどんどんエスカレートした。“信者の動きは逐一織田家に報告しろ”、“本願寺が指令を出す際には織田家の許可を求めろ” 
③ ついに本願寺 11世 法主顕如(けんにょ)はキレた。
   「仏敵・信長を討て! 従わぬものは破門する!」  「進むは極楽、退けば地獄」 と鼓舞し、「南無阿弥陀仏」の経文を唱えながら死をも怖れず攻撃せよと。

信長と“お坊さん”の戦争開始(石山合戦)である。


政治による知の支配や軍事力による力の支配よりも、宗教による「心の支配」のほうがより強く人を引き付ける事が出来る。信長は、捕らえた門徒は全て惨殺するという苛烈さで、殺された 一向宗門徒 は十万人を超える。これは広島・長崎に落とされた原爆の死者に匹敵するもので、日本史上における最大規模の虐殺らしいが、信長の側にも彼等を殺さなければならない理由はあった。

信者というのは、その信仰を捨てない限り、たとえ戦いに破れようと国が滅びようと、彼等が屈服することは絶対にないからだ

 最終的に天皇の仲介で顕如は和睦した。最後の砦、石山本願寺は信長のものとなったが、引き渡し直後に寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は完全に寺を焼き尽くしたという。そして、信長の後を継いだ秀吉が、この跡地に建てたのが“大阪城”である。
〜写真は今の大阪城

石山合戦は当時最大の宗教一揆でもあったため、それが終結したことで各地の宗教一揆は激減することになった。最大宗教一向宗は、この後内部分裂を起こし、そこを秀吉・家康に狙われ西本願寺東本願寺に分裂した。信者の団結力を削ぎ、武力で国造りをしたい武士の作戦にお坊さんが屈服した。人間だから欲はあるが、それを捨てられなかったかもしれない。


プラス1  また訪れたい寺 “天龍寺
 この写真は、天龍寺室内から眺めた庭園である。手前が曹源池(そうげんち)で、向こうに点在する石組が有名である。この廊下に座って庭を眺めるのが実に気持ち良い。庭の向こうに嵐山が見え、いつまで見ていても飽きない景色である。

 天龍寺臨済宗である。前述したように、武士が好む”座禅で悟りを開く”宗教である。このお寺も宿泊施設になった。今の有名ホテルに美しい庭があるように、臨済宗寺も美しい庭が多くある

歴史を語れば、足利尊氏後醍醐天皇の霊を慰めるため、1339年国師(今でいう人間国宝):夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建されたとある。室町時代には京都五山の第一位を占めた。その功績があってか、17ある京都世界遺産の1つである。

何しろ観光メッカ嵐山の双璧(渡月橋天龍寺)なので大混雑する。上手に観光するには、ここ天龍寺に早朝駐車し(一日料金)、開館の8:30から拝観したあと他に行くのがベストである。

3回訪れたが、また行きたい場所の1つである。