会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 7

オーストリア 後編  ハプスブルク帝国

 歴史から言えば、オーストリア=ハプスブルク家である。


ハプスブルク家の家訓、それは
『戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ。結婚せよ。』


これは、マクシミリアン1世(1486〜1519)の結婚政策を表現したものである。そもそもハプスブルク家は、アルプスの小領主にすぎなかった。もちろん戦いに勝利したこともあったが、多くは結婚政策によって領地を手にいれた。
写真はウィーンにある新王宮 上には家紋 双頭の鷲がいる。

ハプスブルク家が発展した経過は、およそ下記である。


1) 当時(今から千年前)の神聖ローマ帝国王は選挙で決めるのだが、筆頭大貴族のベーメン国王オットカルに任せておいては何かと厄介だという思惑で、名もない弱小貴族ハプスブルク家のルドルフ1世が選ばれた(競馬で言えば大穴)。彼はこのため、本拠地をスイス(チューリヒ辺り)からウィーンへ移し、何と強敵オットカルとの戦いに勝利した(マルヒフェルトの戦い1278年)。日本で言えば、織田信長今川義元桶狭間の戦いで勝利し、世の中を驚かせ、勢力地図を塗り替えたようなもの。(写真がルドルフ1世 鼻が高いのは織田信長も同じ?)


2) しかし選挙とは良くしたもので、“一国を強くするとロクなことはない。”という民主主義か、はたまた利害関係なのか、その後150年間 ハプスブルク家が継続して国王に選ばれることはなかった。


3) 1440年 フリードリヒ3世が国王に選ばれ、これ以降ハプスブルク家が世襲する。やっと家運(結婚政策)が巡ってきたのである。フリードリヒ3世の子、マクシミリアンはブルグンド(オランダ・ベルギー辺り)の公女(一人娘)マリアと結婚したが《1477年》、ブルグンドの直系が途絶え、ここの相続権を手に入れた。
〜写真がマクシミリアン1世 家訓を残したことで有名〜


4) さらに、マクシミリアンの息子と娘をスペイン王家と夫々結婚させた〈1496年〉。共通の敵フランスへの備えであったが、またしてもスペインに直系が途絶え大国スペインを手にいれた。

当時のスペインは強かった。南米ではメキシコを初め、ブラジルを除く地域を植民地とし、アジアではフィリピン・マカオ・・・を支配していた。世界のどこかで陽があたっていたので、当時“太陽の沈まぬ国”と言われた。それだけ繁栄したのだが、見方を変えればハプスブルク家が世界を支配していたともいえる。

〜スペインの無敵艦隊アルマダ。当時世界最強と言われたが、1588年イギリスとの戦いに大敗し制海権を失った。そして世界はイギリスの時代へと移っていくのだが。。。〜


5) さらに孫をハンガリー・ボヘミア(チェコ)の王家と結婚させた《1521年》。これは、共通の敵オスマン帝国の備えである。不幸にもオスマンとの戦いで国王が戦士し、この相続権も手にいれた。


この一連の結婚政策により、ハプスブルク家はヨーロッパ最大の勢力を誇るに至ったのである。(写真は神聖ローマ皇帝 帝冠 ウィーンの王宮宝物館にある)


一方、本家の神聖ローマ帝国はフランス・ロシア・そしてスエーデンの脅威にさらされる。当時、ルターによって宗教改革が行われ、プロテスタントと呼ばれる新教徒が現れた訳だが、ハプスブルク家は一貫してカトリックを信仰した。このため30年戦争(1618〜)と呼ばれる宗教戦争が始まり、ドイツ・ボヘミアは荒廃し、人口の1/4にあたる500万人が命を失ったと言われる。このため、国が疲弊し隣国から攻め込まれたのだ。 
私などは、
「同じキリスト教なんだから、どちらでもいいじゃないか。なぜ命までかける?」

と思ってしまう。日本にも、奈良仏教から密教天台宗、等)、そして今の鎌倉仏教(座禅の曹洞宗、等)への変遷があったが、“お坊さん同士の戦い”で宗派の幾つかが衰えた程度だったし、江戸時代 キリスト教の禁止で島原の乱(1637年)が起きた時も、死者は37,000人である。

国民の1/4が死ぬとは、九州・四国・山陰・山陽の住民全員が犠牲となるくらいだ。(もっと多いかな?)〜肖像は乱の指導者:天草四朗〜

これでハプスブルク家は衰えることにより隣国から狙われる一方で、帝国内での“内輪もめ”も始まる。さて、この苦しい時代に登場するのが女帝マリア・テレジアである。彼女は、最大のライバルであったフランス“ブルボン家”と手を結んだ。世界史で言う『外交革命』である。


「革命」と言う言葉は常識を覆す言葉である。今でいうなら、
アメリカと中国が手を組んでロシアに対抗する。またはアメリカがイスラム圏と手を組むようなもの。しかし、これは不幸も伴った。末娘マリー・アントハネットをルイ16世に嫁がせた結果、フランス革命が勃発し夫婦とも処刑され、挙句の果てにはナポレオンの侵略を招くことになる。そして、ウィーンは陥落。800年以上間続いた ”神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡《1804年》“

この時点でハプスブルク家オーストリア帝国と成り下がった。


しかし、タダでは起きないのが世界のハプスブルク家である。

世継ぎの無かったナポレオンは、苦楽を共にしたジェゼフィーヌと離婚してハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズ(マリア・テレジアの孫)と結婚した。やがて待望の男子ナポレオン2世ライヒシュタット公爵)が生れた。しかし、不幸にも既にナポレオンの時代は終わっていた。
(写真は王宮内にあるアウグスティナー教会。“太陽の沈まぬ国”も翳りはじめ、やがて滅びていく。)

ナポレオンは貴族ではなく軍人であったから、名声と共に“箔(ハク)”が必要だったと思うし、加えて来るべきロシア攻略に備えることができた。ハプスブルク家もナポレオン帝政になってフランスに王政が復活することを密かに期待した。


これぞ、ハプスブルク家の家訓
『戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ。結婚せよ。』


続く。


プラス1  音楽の都
 今から100年前、ヨーロッパはフランス・スイス・サンマリノ(イタリア内)を除く全ての国が君主制であった。それが今は、イギリス・北欧3国(ノルウェイ・スウェーデン・デンマーク)・オランダ・ベルギー・スペインとモナコなどの小公国のみとなった。ヨーロッパ全土を襲った2度にわたる世界大戦で多くの王朝が崩壊し、歴史の舞台から消え去ったのである。因みにハプスブルク家も、第1次世界大戦でオーストリアが敗北して崩壊。最後の皇帝カール一世とその家族はスイスに亡命し、640年の歴史に幕を閉じた。
(写真はハプスブルク家の象徴“双頭の鷲”)

王朝と聞くと、横柄で贅沢・上から目線など良い印象はないが、文化の発展は王朝なしではありえない。その証拠にウィーンは“音楽の都”と呼ばれる。モーツァルト・シューベルト・ハイドン・などが活躍できたのも、ハプスブルク家が擁護したお蔭である。

 ところで、ウィーンは音楽と共にお舞踏会も有名である。正装して王宮の広場でウィンナーワルツという独自のステップを踊るセレモニーが今も開催されているらしい。私も若いころは競技ダンスを志しある程度踊れたので、次回ウィーンに行く時にはタキシードを持参して踊ってみようかな。。。
(写真は若きころの私。ウィーンで踊る夢を持って、もう一度練習するか。)