会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 17

幻のポツダム 前編(ドイツ)

 この写真はポツダムにある“サンスーシ宮殿”で、大王と呼ばれたフリードリヒ2世が1786年に建てたものである。サンスーシとは“悩みのない・憂いがない”、すなわち完璧な宮殿なのだ。本当は、ここに行く予定だった。それが、下記により行けなくなった。ハプニング、いやドラマである。


① ツアーでは夕方19時の飛行機で日本に帰国。それまでは自由行動となっていた。そこで、ポツダムは何処にあるかと調べたところ、何と電車で1時間足らずだと分かった。
② しかし、本スケジュールにオプショナルツアーはない。自力で行くことも考えたが、ドイツ語であり、宮殿では混雑が予想をされるらしい。夕方までに帰れなくなると、それは日本まで帰れなくなる。
③ この時点で一旦は諦めたが、ダメ元で他社のツアーを探すと、何とJTBが半日ツアーを紹介していた(8:45集合〜14:00解散)。この中には、日本が負けを認めた、「ポツダム宣言」の採択場所“ツェツィリエンホーフ宮殿”も含まれている。


  “こんなこともあるんだ。俺のためにあるようなツアーじゃないか!”

多少の躊躇はあったがネットで申し込んだ。躊躇というのは、
1)値段が24,000円/人と高額だったこと。半日で。。。?
2)集合場所とホテルは近くだが、果たしで。。


続く


プラス1 ポツダム宣言
1945年7月17日から8月2日にかけ、ポツダムのツェツィリエンホーフ宮殿において、日本に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。最終的には天皇制を保障した降伏勧告案を出すことで、日本の承諾を容易なものにした内容になっており、アメリカ・イギリス・中華民国、後にソ連も加わって決定された。(写真はその時の様子。中央の白い服がソ連スターリン。)


アメリカの戦争計画は、
1)原子爆弾の投下
2) 日本本土侵攻作戦
3)ソ連の対日参戦(当時 日ソ不可侵条約を結んでいた。)であり、特に原子爆弾の威力によって日本にショックを与えることができると考えられていた。一方、本土進攻作戦は日本の激しい抵抗から膨大な犠牲が伴うため、ソ連の参戦によって日本の息の根を止めたい狙いがあった。

かくして7月26日 連合国側が「ポツダム宣言」として日本に発したが、「黙殺する」とした日本政府の対応を拒絶と理解し、原子爆弾を投下した。ソ連も8月8日には日本に宣戦布告した。陸軍は本土決戦を主張したが、天皇の「聖断」により8月14日これを受け入れ戦争は終結した。
〜この写真は敗戦から1ヵ月半の後、昭和天皇マッカーサーを訪ねた時のもの。日本国民はこの1枚に敗戦の現実をまざまざと実感したという。〜


さて、ポツダム会談の舞台となったツェツィリエンホーフ宮殿は、最後のドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の妃“ツェツィ−リア”の名前から付けられた。ツアーではポツダム会議場所も見学できるらしい。椅子に座って


“さぁ、日本をどのように料理しましょうか??”


差し詰め、各国首脳はこんな会話をしていたのだろうか。そんな場所に立ちたかったが幻と消えた。
 もう1つの私の楽しみは、この宮殿にヴィルヘルム2世が家族と住んでいたこと。ヴィルヘルム2世と言えば、第1次世界大戦を引き起こした張本人。彼が暴走せずビスマルクの言うことを聞いていれば、犠牲者1000万人の命も救えたかもしれない。