会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 8

クラクフポーランド


 参加した中欧ツアーのパンフレットにあったのは、
『なかなか訪れることのないポーランド

言われてみると、オーストリアやチェコのツアーは沢山あるが、ポーランドは見当たらない。どんな国だろうかと興味が沸いた。
〜写真は中央広場で右は聖マリア教会 1222年建造〜


写真下は中世のポーランド首都クラクフの街並みである。ここは第2次世界大戦で奇跡的に戦禍を免れ、古い街並みがそのまま残っている(街全体が世界遺産に登録)。

 
この街を案内してくれた現地ガイドは日系2世の女子大生。彼女が冒頭で言ったことは、
ポーランドと聞くと暗いイメージがあるかも知れませんが、ここクラクフは学生の街で活気があります。」

因みに、彼女の母は国費で京都大学に留学中に同じ京大の父と結婚し、今は家族でクラクフ暮らしらしい。
 国費で京大かぁ。それも共産時代に女性で。。頭良いんだ。

変な話だが、この街がどことなく京都に似ているなと感じた。
(古い町並みが残るメインストリート)


写真は、ガソリンスタンドにあった有料トイレのゲート。ヨーロッパは基本的に有料である。聞けば、昔はトイレがなく人々は“おまる(簡易便器)”で用を足し、一声かければ窓から投げ捨てることもマナー違反にはならず、誰もが当たり前のように窓から投げ捨てていた。
だから都市部は非常に不潔な状態。ペストが流行るのも納得する。
 因みに、料金はポーランド通貨1スウォティ(33円)で御釣りもでない。せめてユーロが使えれば良いのだが、トイレのためだけに通貨を用意しなければならず、旅行の中で一番気を使った。


写真はホテル近くの歩道にあったポーランド語である。
 “SPRZATAJ PO SWOIM PSIE”

会社の見識ある人に訳してもらうと、“排泄(はいせつ)の世話をしましょう“
日本は看板が一般的で、道路にマークはない。因みに自転車専用道路もあり、ここで事故が起こると歩行者が悪くなる。だから、横断するときは注意しないといけないし、日本的な感覚で休もうものなら危険極まりない。自動車道路と同じである。
人間のやることに大差はないが、国によって特徴がある。
そんな感じを受けたポーランドである。

続く。


プラス1 ポーランドの歴史

 ポーランド人はスラヴ人と呼ばれる人種で、バルカン半島南部・スロヴァキア・ロシア等に住み、ドイツなどのゲルマン人とは若干顔つきが違う。まぁ、ロシアのプーチン大統領のような感じである。(ちょっと大雑把かな。。。)
さて、ポーランドは何度も侵略され、地図から姿を消した。国土の50%近くが農地でありライ麦を初め豊富な食料提供地である。言わば、
“ヨーロッパの穀倉”

侵略される魅力があるからだ。(写真はポーラントの肥沃な大地・・車窓より)
 
中世にはクラクフを首都してヤゲヴォ朝が栄え、15世紀にはリトアニア・ポーランド連合王国として君臨し、ヨーロッパ最大の王国となった。(地図はその領土で、ロシアを国境とした)
しかし、1572年に王位継承者が断絶すると国力は低下、ついに1795年 ロシア・プロイセン・オーストリアに分割され国が消滅した(地図下)。その後ナポレオンの傀儡国家(ワルシャワ大公国)を経てロシアに併合され、厳しい時代を迎えた(1815年〜)。
それから100年後、第1次世界大戦が終わるとアメリカの提案で国家は蘇ったが、20年という束の間の平和も第2次世界大戦の勃発でドイツとソ連の侵攻により再び地図から消えた。不幸にも人口の1/6 600万人が犠牲になり、ワルシャワを初め多くの都市は破壊された。

終戦後は、再びソ連共産主義圏を担う一国としてなった。ワルシャワ条約機構(アメリカなどに対抗する軍事同盟)から分かるように、ソ連の第一の子分であった。やがて、ベルリンの壁が壊され《1989年》ソ連も解体すると、新しいポーランドの模索が始まった。政治の動揺や市場経済の導入により不安定な時期もあったが、2003年4月 EU加盟を果たした。歴史の重さから言えば、たった10年の自由である。 
人口3,900万人、面積は日本の4/5