会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 15

チェスキー・クロムロフ(チェコ
 
写真はチェスキー・クロムロフ城から旧市街を撮影したもの。ほとんどの日本人は下記の一言を発する。
 「わぁ。。。」

ここは、プラハから200キロ南に位置する世界遺産の街で、チェコで最も美しいと言われる場所である。写真右手前のヴァルタヴァ川は、プラハを抜けドイツでエルベ川と合流したあと北海へと注ぐ。中世に発展した街は往々にして大河と繋がっている。交易として栄えた所以であろう。

いつまでも眺めていたいし、シャッターを押したい気分であるが、ガイドさんが
“さぁ、次の観光地に行きましょう!”

日本人は、欲張りツアー・ハードスケジュール(いわゆる弾丸ツアー)が似合う国民かもしれない。


続く


プラス1 チェコと日本の接点・・・シベリア出兵1918〜22
 日本史の中には、ポルトガル(鉄砲伝来)や、オランダ(江戸の鎖国における貿易)、イギリス(共通の敵ロシアに対する日英同盟)など、強かったヨーロッパ諸国は登場するが、中欧の国々とは無縁である。その中で日本がチェコ軍を救出させるという名目でシベリアに出兵した事件がある。

シベリアと聞くと“シベリア抑留”が頭に浮かぶが、これは第2次世界大戦の話であり、今回紹介するシベリア出兵は第1次世界大戦である。
 〜写真は極寒のシベリア鉄道 1・2月の平均気温はマイナス30℃〜


下記が経緯である。
 1)19世紀末チェコオーストリアの属国であり、第1次世界大戦ではロシア・イギリス・フランスを敵とした。ところが、同じスラブ系のロシアと戦う気などなかった。
 2)このため進んで捕虜となり、逆にロシア側の兵士としてオーストリアと戦うことを望んだ。理由は単純で、オーストリアが負けてチョコを独立させることにある。
3)しかし、ロシアに革命(1917年11月)が起きソ連共産主義が誕生した。これに伴いソ連は戦争を放棄した(ブレスト=リトフスク条約)。戦争を止めたいがために革命が起きたと言っても過言ではない。
これにより、チェコ軍団は行き場所がなくなってしまった。そこで世界一周計画。シベリア経由で日本・アメリカ・フランスと渡り、西部戦線でとオーストリアと戦うことになった。(写真はシベリア鉄道に乗車中のチェコ軍)
4)ところがシベリア鉄道の輸送能力が悪く、足止めを食ったチェコ軍はソ連と“いざこざ”を起こしシベリア付近で勝利し占領してしまった。ソ連は戦争意欲がないからチェコ軍団が強いに決まっている。
5)ソ連との戦争に勝利しても無計画なので孤立してしまった。さすがのソ連も面目丸つぶれとなり、チェコ軍と戦うことになった。(本来ならオーストリアと戦って独立するはずが。。。無益な戦をした。)
6)この時、「チェコ軍を救え」と、イギリス・フランス・アメリカ・日本が協定して出兵したのがシベリア出兵である。地形から、最も近い日本が多くの兵を出した。資本主義国(列強)の真の狙いは共産主義の排除であった。本当は、植民地争いから始まった第1次世界大戦など止めて、ソ連社会主義が自国に影響を及ぼさないように協力しないといけないのだが。。。これに比べ、日本は欧州諸国とは若干違い大陸への領土的野心があったので、第1次世界大戦が終わってもシベリアに残った。これは欧米のヒンシュクを買い、大した成果もないまま撤退した。

7)結局、チェコ軍はオーストリアと戦わずシベリアで日本軍とともにソ連軍と戦うことになった。シベリア鉄道の輸送が、“シベリア迷走”となってしまった。何しろロシアは世界一広い国である。特に東西は長い。シベリア鉄道は東西を繋いでおり9300キロもある。これは稚内〜沖縄(3000キロ)の3倍に値する。
8)やがて、第1次世界大戦が終わって念願の独立を達成したチェコだったが、結局チェコ軍団は西部戦線オーストリアと戦わずして戦争は終わった。祖国チェコへは、アメリカ等の輸送船で帰ることになった。


歴史は人間が作るもの。思惑通りにはいかないことも多々ある。