会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 11

プラハチェコ) 前編
 

 
 中欧ツアーのコースには、必ずプラハが入っている。我々が訪問したのは木曜日午前中だったが、街には人が溢れ大変な混雑だった。
プラハは昔から交易の中心で、街はとても豊かであった。ブダペストの美しさとは一味違う。こんな言葉があるか分からないが、

「歴史が美しい」


(写真はヴァルタヴァ川に映えるプラハ城)
中央の尖った建物がヴィート大聖堂で1344年に完成した観光の人気スポット。大混雑するため、朝一番の開場を待って見学した。プラハは別名“百塔の都”と言われるくらい、尖塔建築物が多い。


 写真が有名なカレル橋。ニックネームは
「世界一 スリの多い橋」

ツアーガイドさんから、“用心して下さい”と言われたが、橋の前後・左右、どの場所から見ても写しても絵になる風景に、ついつい我を忘れてしまった。スリにしてみれば、“ご自由に盗んでください。”と人が立っている感じだろう。それほどに魅力がある。普通に歩けば10分だが、満喫したので1時間を要した。幸いスリとは無縁であった。ところでカレル橋とは、当時の王様カレル1世の命で、1357年から60年を費やして完成したもの。全長520m、幅10m。橋の欄干にはカトリックゆかりの銅像(フランシスコ・ザビエル、etc)が30体あり、特徴も多く楽しませてくれる。
1357年と言えば日本では室町時代。さしずめ“金閣寺”だろうか。ヨーロッパの“石”の文化に対し、日本は“木”。優劣つけ難いが、保存から言えば石に軍配があがるかもしれない。


 
沢山撮った中で気に入っている一枚。プラハ城サイドにあるマラー・ストラナ地区で、中世の街並みに人混みがマッチしている。

“いやぁ、美しい。一度訪れてください。くれぐれもスリにはご用心!”


                                       続く


プラス1 チェコの歴史

 チェコとは、スラブ系チェック人に由来しており、6世紀ポヘミア地方に住み着いた最初の民族である。中欧では、国家の興亡が頻繁に起こったが、チェコも例外ではない。国として安定するのは962年神聖ローマ帝国の一領邦となってからである。その後、ドイツから多数の職人や農民が移住して都市の建設や鉱山開発が進み、豊かな地域に成長した。ウィーン(オーストリア)・クラクフ(ポーランド)と並び中世の3大中心地となった。
 〜写真は旧市街にある天文時計(1490年)。毎正時には、上部2つの窓から仕掛け人形が姿を現す。大時計の両端にはキリスト12使途が現れ500年以上も動き続けている。時間になると大勢の人で賑わう。〜

 その後、ハプスブルク家の支配を受けオーストリア側として第1次世界大戦に参入した。敗北によりチェコスロヴァキア共和国として独立(1918年)を果たしたが、工業が盛んなことからヒトラーによってドイツの属国となり軍事産業を担当した(1939年)。第2次世界大戦終了後、再度共和国として蘇ったが、ソ連社会主義の枠組みに組み込まれた。それでも議会制を模索し、「人間の顔をした社会主義」を目指したが、ソ連の戦車に踏みにじまれ弾圧された(プラハの春)。ソ連の解体後、スロヴァキアと分離し(1993年)、急激な経済改革で成長した。2004年 EUに加盟した。自由主義国への仲間入りなのか、ロシアと距離を置きたかったのか。。
侵略を受け続けた街が学んだものは、”自立”と”しなやかさ”かもしれない。


プラハに春が来て、まだ10年である。
人口1,000万人(プラハ120万人) 面積:日本の1/5