会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 5

オーストリア 前編
 


“No Kangaroo in Austria”
“オーストリアにカンガルーはいません”という自虐的な宣伝看板やTシャツまで売っているオーストリアは、世界からみれば存在価値が薄い国かもしれない。
 正直、私も今回のツアーに参加するまでは興味が薄かった国。しかし、ウィーンを訪れた時点で考えが変わった。

 “街がこれほど美しいとは!”

個人的には、パリより美しいと思った。

(写真はウィーンの目抜き通りの1つグラーベン。中央左にあるモミュメントはペスト記念柱(1686年)で、ペスト(黒死病)で人口の半分10万人が死亡した。)



 写真は、ウィーンを代表する老舗ケーキ店“デーメル(日本ではデメル)”でトルテ(ケーキ)を食べた時のもの。夫婦でオシャレしてポースするのも久しぶりだ。

甘党を自称する私としては恥ずかしい限りだが、ウィーンがトルテで有名なことや、ここデ−メルがザッハー(店名)と“甘い7年戦争”と呼ばれる御本家争いをしたことを知らなかった。女性メンバーの何組かは、デーメルとザッハーのトルテを食べ比べしたらしい。

しかし、デーメルのトルテは私には若干甘過ぎる。もちろん1786年から開業している王室の御用達なのだから、これがオーストリアの味なのだろう。




 
写真はクリムトの絵画“接吻”である。これは、市内のベルヴェデーレ宮殿にあるらしく、この絵が見たくて参加した人もいる。因みに、書籍
『世界の絵画50』 佐藤晃子(KAWADE)にも載っていた。世界史オタクを自称していた私であったが、こんな大事な情報も分からずにウィーンを訪れたのは、もったいなかった。

“もう一度、ゆっくりウィーンを訪れたい”と思わせてくれたのが、せめてもの収穫だった。

続く


オーストリアの歴史
 オーストリアはフランス・ドイツと同じゲンマン民族の国である(今のデンマーク辺りがルーツ)。世に名高い“ゲルマン民族の大移動”の結果、カール大帝フランク王国を建国し、やがてドイツ・フランス・イタリアに分かれた際のドイツ領土に位置している。
〜図は西暦900年ころのヨーロッパ〜

ドイツ(神聖ローマ帝国)は、フランスと違い国王の力が弱い小国(諸侯)の集合体で、この中の1つを支配したハプスブルク家がウィーンを本拠地にして発展させた。因みにオーストリアとは、ドイツ語で「東の国」。

オスマン帝国による2度のウィーン包囲にも屈せず、逆にハンガリーを奪うなどオスマン弱体化のきっかけを作った(1683年)。なお、この戦争でオーストリアはコーヒーを知った。


ナポレオンの侵略で神聖ローマ帝国が滅亡した際(1806年)、ドイツ帝国の復活を夢見て、北方のプロイセンと主導権争いをしたが敗れ(1866年)、ドイツ連邦から締め出された。これ以降、オースリア・ハンガリー連合王国を形成し中央ヨーロッパの大国の地位を維持することに成功、帝都ウィーンには世紀末美術の花が咲くなど繁栄を得た。
〜地図は第1次大戦前のヨーロッパ情勢。オーストリアは広大な領土を有していた。〜
しかし、ドイツ共々 第1次世界大戦に敗れたことで、ポーランドチェコハンガリーなどが分割され帝国は解体。領土が1/4に縮小しほぼ現在の形となった。第2次世界大戦を前にして、今度はヒトラーオーストリア出身)によりドイツに編入させられた。
 またしても戦争に負け、イギリス・フランス・ソ連アメリカの管理下に置かれたが、1955年永世中立国宣言し独立を達成した。


人口840万人(ウィーン170万)、面積は日本の1/5.1955年1月 EUに加盟した。