会長の ”中欧を訪ねて”(海外旅行の勧め) 13

プラハチェコ) 後編


展望台で見学のあと、再び旧市街に戻り歴史建造物“火薬塔”の見学をする予定だったが道を大きく誤った。アメリカや中国にある碁盤の目で整備された道とは違い、ヨーロッパの都市は中心から半径を描くように伸びていたり、敵からの侵入を防ぐための迷路もある。ここプラハも“旧市街広場”を中心として道が作られているから、まずは広場まで来て出発するのが迷わない方法だろうが、“何とかなる”の勢いから直感をたよりに歩いたのが失敗だった。
(写真の尖塔が火薬塔。中世における城壁門の1つ(1473年))


“火薬塔”のハズが、着いた場所は“ヴァーツラフ広場(写真)”。円の角度にして45度の方向違いである。

妻はオカンムリだが、歴史オタクの私はラッキーだった。この場所が「プラハの春(1968年)」の舞台となったからだ。
 “ここがプラハの春の。。。 こんなこともあるんだ。”
予期せぬ見学に、ちょっと興奮気味だった。
〜写真の広場に戦車が入った。中央の銅像は聖ヴァーツラフ一世(ボヘミア王)〜


プラハで写真のようなストリートミュージシャンを多く見かけた。おそらく観光関係者が雇っていのるだろう。演奏をして観客からお金を貰っているようには見えない。チェコの伝統衣装と楽器はPRになる。勿論、演奏が上手い。拍手喝さいである。
 
ところで、道を間違えた我が夫婦は、その後の主導権を妻に握られバス停まで直行した。妻にしてみれば、とにかくホテルに帰れないと心配で仕方ないようだ。予定ではチェコビールで乾杯の筈だったが、夢は儚くも消えた。
 “何とかなる!”も、たまには?上手くいかない。
 ホテルに戻ると、非常食として持参した「サトウのごはん」・インスタント味噌汁・お茶(2lのペットボトルで旅行中にも飲む)で夕食となった。久しぶりの日本食に胃袋もホッとしたかもしれない。
“まっ、いっか”

続く


プラス1 30年戦争(チェコが舞台)
 
30年戦争とは1618年〜48年の30年間に渡って行われた戦争で、「最後の宗教戦争」と言われている。ドイツ(神聖ローマ帝国)のチェコ諸侯が、従来のカトリックに対し信仰の自由を求めて立ち上がった。諸侯とは、いわゆる新教徒 後のプロテスタントである。
(絵の中で、木にぶら下がっているのは虐殺された死体)。
戦争というのは、利害関係が複雑に絡んで起こるもの。スエーデンは自国を安定させるために新教徒側で参
戦した。それなりに大義はあるが、こともあろうにカトリック信仰のフランスまでが新教徒側を応援するという国際戦争となった。ヨーロッパの2大王朝ハプスブルク家VSブルボン家の戦いである。プラハは最後まで激戦地となった。この戦争でおよそ800万人が犠牲となり人口は激減し国は荒廃した。(写真が処刑された旧市街広場。銅像はヤン=フスで宗教戦争の先駆者である)


こうなると“終わり方”が難しいのだが、最終的には宗教による合意で決着した。すなわち
「領邦(小国)の領主に宗教を決める権利を与えた」
世に名高いウェストファリア条約である。

ヨーロッパ=キリスト教といっても過言ではない。カトリックから始まり、正教・プロテスタントイギリス国教会。。。 こう考えれば、キリスト教同士の争いから始まった30年戦争も単なる国益戦争だったかもしれない。