会長の ”東北震災地を訪ねて(後編)” 震源地 宮城2
東松島市大曲浜
写真は、定川(ジョウガワ)に掛かる県道247号線の橋。津波で船が流され、ここに激突してご覧の通り、真二つに破壊されてしまった。これだけ頑丈な橋でさえ、津波の前には無力である。因みに橋の向こうが大曲浜で、被災が酷い地域の1つである。
橋は大動脈であり、通れなくなると生活が分断される。このため、左にある仮設の橋ができている。復旧・復興の第1歩である。
震源地 宮城の凄さを思い知らせた衝撃の一枚である。
仙台空港を横目に、一路 大曲浜を目指した。距離にして50キロはある。高速道路があると言っても、午前中の福島もこともある。本当にたどり着けるのか、また着けたとしても夕方便(19:30発)に間に合うだろうか。そんな不安を胸に、常磐自動車道・三陸自動車道に乗った。
しかし、これが快適そのもの。東名高速道路と何も変わらない。100キロで普通に走れるし、渋滞もない。
“どうなってんだ、この東北という場所は、復旧・復興の格差がありすぎる。”
そう思いながらも、30分快適なドライブを満喫し石巻港ICで下車した。やがて、冒頭の写真の橋に着いた。
“凄いなぁ。津波は怖い”
久しぶりに背筋が震える体験をした。この風景を写真に収めたい。人に紹介したいと思った。橋を色々な角度から撮り続けた。
そして大曲浜に向かうと、いきなり瓦礫処理場が見えた。ここでも目が点になった。
“凄すぎる。2年半経ってもこれか。。。”
もう言葉が出なかった。出るのは溜息だけ。
ここも写真に収めた。撮り続けた。そして、しばらく眺めていた。岩手県にも同様な瓦礫集積場はあったが、そこは隠れた場所にあるものばかりだった。しかし、こうして公道の横に堂々?とあると度胆を抜かされる。この後、石巻市に向かった訳だが、この当たりには、津波の強さを物語る風景が至る所にある。
写真がその1つであるが、電柱が曲がって立っている。もちろん使われている。津波でも倒されずに残ったものなのか、新設したが、余震なので曲がってのか分からない。日本の他の場所なら、安全面で立て直しとなるが、そんなことを言う余裕はないのかもしれない。
“凄いなぁ。”
“たくましい! 宮城は”
ここまで見ると、悲惨さより頑張っていることに、なぜか嬉しくなった。実は、この傾いた風景には思い出がある。アメリカ赴任中に訪れたニューオリンズ郊外にあった電柱である。写真がそれで、原因はハリケーン“カトリーナ”である。
この傾いた電柱を見ながらアメリカを思いだした。
こうして、次の目的地 石巻に向かった。
続く
プラス1 ハリケーン“カトリーナ”の爪痕
US赴任の2005年8月末 アメリカ南東部(ニューオリンズ、他)を襲ったのが、ハリケーン“カトリーナ”である。台風情報で言うと、
中心付近の気圧: 902ヘクトパスカル
最大瞬間風速: 78m
これほどの台風が日本に上陸したという記憶は私には無いが、もし東海地方に上陸したら、甚大な被害がでるのは明らかである。実際、アメリカでも死者・行方不明合わせて2500名。家を失った人52万人、失業者40万人というデータがある。(写真は、水没した住宅地)
ところで、私がニューオリンズに行ったのは2006年12月だから、カトリーナ上陸1年後であった。状況は東北震災現場と似ていた。富裕層の家は被災したままの状態だったし、田舎には仮設住宅らしき家が建てられていた。印象的だったのは、仮設住宅に住む住民の笑顔だった。家を支給しもらえたのでホットしているのか、元来 楽天的な民族なのかは分からない。ただ、見方を変えれば、新しい自分の家を持とうという意欲は生まれない。
勿論、ジャズ発祥地・ミシシッピー川の河口・アメリカ南部の観光地(マルディグラ、風と共に去りぬ、公民権運動。。。)、魅力満載のニューオリンズは既に元気だった。町には人が溢れ、音楽がどこからともかく聞こえてきた。
(写真はジャズクラブ:メゾン・バーボンで)
“人はいつまでも、悲しんではいられない。楽しみ・喜びもないと生きていけない。いや、喜びたい。笑いたい。歌いたい。”
そんな気持ちにさせるニューオリンズだった。