会長の ”東北震災地を訪ねて”   津波の爪跡 7

陸前高田 5

〜写真は陸前高田第1中学校西側。津波の凄さが分かる一枚。中央の白い部分が道路となっており、右側に1キロ行ったところに仮設の市役所がある。〜

前回の会話つづき
(私) 今は何もない広っぱですね。
(Oさん)  あの時トラックで運ばれた人(死体)は良い。
      遺体が無いと家族は諦めがつかない。
(私)    そんなもんですか。
(Oさん)  そうだ。

(私)    ・・・・

(Oさん) 私には息子がいたが一か月半後に会うことができた。いやぁ 嬉しかった。
     “「オヤジ生きてて良かった」 と言われてね。”
(私)   連絡がつかなかったんですか。
(Oさん) 何もかも失ってしまったからね。避難所は人だらけだし。。。
   ・・・・・・
(私)   あれから2年半ですね。
(Oさん) そう、今は「あれは本当だったのか」と思うこともある。周りにいる人間も皆忘れていく。

(私)    何が生死を分けたのでしょうか。聞いていると運もあると。。。
(Oさん)  運だよ。
 
俺が頭で理解して逃げた訳じゃない。体が勝ってに動いただけ。俺と同じように逃げた人も沢山いたと思うが、俺は学校に近かった。


〜私は、やり場のない悲しみが込みあげてきた。〜
(写真は、冒頭写真の位置を撮影したもの。右端に見える屋根の建物がテレビで報道された家。坂の途中まで津波が来た。必死で逃げてくる人の映像がテレビで放映された)




(Oさん)  震災があって暫くして、いろんな人が見学にきた。口ぐちに
「テレビじゃ南三陸町が一番ひどいと報道しているが、陸前高田の方がひどい。何もない。」と言っていた。

(私) そうですか。。。。
今日は本当にありがとうございました。

(Oさん) これからどうする。
(私)   大船渡で泊まります。
(Oさん) そうか。気をつけて。

それからOさんと私は仮設住宅の片隅で喋っている女性(”おばちゃん“よりも”おばあちゃん“に近い)に声を掛けられた。
(女性)  “あら、Oさん。また教えてるの。
(Oさん)  そうだよ。
(女性)   “頑張ってるね。。。(笑い)

そしてOさんは最後に行った。
“あの人たちも最初は落ち込んでいた。しかし2年もすると忘れている。彼女たちが生きているのも運だ。皆そう言っている。死んだ人には申し訳ないが。。。
(写真は仮設住宅で遊ぶ子供達。家も勉強道具も思い出の写真も失っただろうか。)
     ・・・・・
(私)  それでは、これで失礼します。


今日 目にした風景が現実の姿である。幸い人間は、辛かったことも時間が経つと忘れていく。だからやり直せるのだろう。

うす暗くなりだした陸前高田を後にし、次の目的地 大船渡を目指した。
 
続く