会長の”次男の大学受験” 第3章 出陣7
早稲田大学 1
早稲田大学の話をすると長くなるが、発端は2年前 長男が大学受験で、早稲田・慶応ともに合格した。私が“ぜひ早稲田”と言い続けたにも関わらず、長男は“慶応ボーイ”に憧れて慶応を選んでしまった(入学金 支払)。最終的に京大に言った訳だが、この時 私には誓ったことがある。
“次男に早稲田を受けてもらいたい。もし受かれば 私が奨学金を全額負担してでも行かせる。定年になってヒモジイ思いをしても構わない。”
しかし、本タイトルで述べているように、次男の成績では“早稲田”のワの字さえ無縁だった。にも関わらず、私は最後まで自分のワガママを貫いた。これは“私の受験”だったかもしれない。
チャンスは3年の春にやって来た。次男は高校からテニスを始め、残念ながら県大会予選に敗退し終了となった。その後は大学受験を目指して勉強する毎日となるのだが、テニスがやりたいのか・受験漬けの覚悟が無いのか? 運動不足解消のためにテニスを続けたいと言い出した。幸い、近所に室内テニススクールがあり、週1回レッスンに通えば気分展開にもなるという。授業料は毎月8,000円と高めだが。。。 (写真は錦織圭 選手)
私も気分転換は大切と考えていたので賛成するつもりでいたが、思いもかけず早稲田受験のことを思い出した。
私は次男の希望を叶えるに当たり、以下の3つをパワーポイント1枚にまとめ、机の前に張り出した。
テニス代について(4月26日)
① 運動不足・ストレス解消のためにやること。
② 上手くなる。カッコよくやりたいなら大学に入ってから。
(今、金と時間を“上手く”に使ってはいけない)
③早稲田を受験すること。
次男は突然の早稲田受験にビックリして、すぐ私に問いかけた。
(次男) 早稲田 受けろってこと。
(私) そうだよ。
(次男) 受かる訳ないじゃん。俺を誰だと思ってんの。
(私) いいじゃないか。まだ1年ある。受かるか受からないなんて、今から分かる訳ない。
(妻) そうだよ。頑張りなさいよ。
⇒まさか、妻が賛成するとは全く予想してなかった。
(次男) やだよ。。
(私) じゃ、良いよ。 テニス代は無しだ。
(次男) そんなこと言って。。。すぐ脅す。
(私) 別に合格しろと言ってるんじゃない。“受けろ”と言ってるんだ。誰でもできるだろう。受けるくらい。
(次男) じゃ、父さんが受ければ。受けれるんだから。
(私) 父さんはたとえ合格しても早稲田には行けない。だけど、お前は行ける。
(次男) ・・・・えぇ。。。。
(私) とにかくまだ1年あるんだから、いいな。
(次男) ・・・・・
当然 納得していない次男であったが、それにもましてテニススクールに通えるプラスの方が大きかったので、これ以上の反論はせず私の条件を呑んだ。
“出だしは上出来! してやったり!”
そんなスタートであった。
次男は、その後も数えきれないくらい“早稲田受験を辞めたい”と口にした。今でも覚えているのは、
1.テニススクールを2か月足らずで辞めた時、資金援助が不要となったので早稲田も止めたいと言った。
2.学校の成績がクラス一番になったら好きなものを買ってやる約束し、実現した時に止めたいと言った。
そんなに嫌な理由がどこにあるのかと、いろいろ聞いてみると
“到底合格しない早稲田を受験することが、学校の中で恥ずかしくてたまらない”
若い頃の私にも、そんな気持ちはあったかもしれないが。。。しかし、同情しつつも早稲田受験の取りやめはしなかった。理由は幾つかある。
1. 受かるような気がしていた。(高校受験の“まさか”の再現を期待していた。)
2. 早稲田の旗印を下してしまっては、目標も下がってしまうのではないかという一抹の不安があった。
3. 受験することは、絶対に次男にとってプラスになると信じていた。
4 私の夢を捨てたくなかった。
次男が早稲田に行ってくれたら、例えば
・国立競技場で一緒にラグビーの早明戦を見る。
・箱根駅伝の往路 芦ノ湖で一緒に早稲田の選手を応援する。そのことを、2014年 元旦 走り初め茶話会のスピーチで得意げに話す。
“実は、明日 息子と箱根駅伝を見に行く。芦ノ湖ゴールでテレビに映るかもしれないので見てほしい”
こんなことを考えるだけでも幸せだった。
無謀な計画だったが、幸いにして次男の成績が急上昇してきたお蔭で、99%ダメと思われていた早稲田合格に多少の望みが出てきた。
夏休みに、次男と言い合いになった覚えがある。
(次男) 父さん、俺に早稲田を受けさせるのは止めにしてくれん?
(私) 何でだ。いいじゃないか。別に三重大受験に支障きたすわけでもないし。
(次男) そうかもしれんけど、恥ずかしいよ。高校の仲間に。
(私) いいじゃないか。仲間にも“一緒に受けようぜ!”と言ってみろよ
(次男) やだよ。そんなことに乗ってくる奴は1人もいない。
・・・・
(次男) それに、早稲田の受験科目は俺の勉強していない化学Ⅱも範囲だ。勉強する気もないし、受かる訳ない。
・・・・・
(私) わからんだろう。そんなこと、やってみなけりゃ。
(次男) そんなに甘くないからね。
(私) 試験なんだから。。。化学Ⅱから出題されないかも知れないし、超難問で全員できないことだってある。
(次男) はっ、はっ、はっ、はっ。。
これには次男も根負けしたようで、この一件依頼、早稲田は受けたくないとは言わなくなった。
10月半ばであった。受験願書の前にホテルを予約しないといけない。
(私) ところで、早稲田受験のためホテルを予約せんといかんが、いっそのこと慶応も受けたらどうだ。東京見物と三重大受験の予行練習でもしてこいよ。もし、受かったら父さんは借金してでも行かせてやる。
(次男) ・・・・慶応の話、もうちょっと待ってくれ。
(私) えっ。。。。
分かった。とりあえずホテルのキャンセルは2週間前までOKなので、3泊分予約しておく。
“慶応は待ってくれ”の返事は意外だった。“早稲田 無理やり受験”に毎回抵抗していた次男が、慶応も。。。と答えたのである。何があったんだ??? (写真は慶応大学)
この後、早稲田を受けるなら慶応もという話はなくなり、結局、“仕方なく早稲田を受ける”ことで決着した。
続く
プラス1 慶応大学 入学式 式辞(清家 塾長)
慶應義塾大学では,学生を塾生,卒業生を塾員と呼び慣わしています。今日もたくさんの塾員の方々がこの式にご臨席です。とくに入学式には毎年卒業50年目の塾員をお招きしています。この式場の後方のスタンド席には,卒業50年目を迎えられた塾員の方々が,新入生の入学をお祝いに全国各地から駆けつけてくださっています。新入生とともに塾員の皆さんのご臨席に感謝したいと思います。・・・さて私達は今大きな変化の時代を生きています。それは社会の構造そのものが全く様変わりしてしまうような大きな変化です。・・・つまり変化の時代には,何よりも自分の頭で考える能力を磨くことが重要であり,その能力は学問をすることによって磨かれるということです。
そしてまた皆さんは様々な課外活動にも参加すると思います。例えばそれがスポーツの場合には,次の試合に勝たねばならないという課題を抱え,そのためにはどんな技術や戦術を磨けばよいか自ら考え,それを日々の練習や稽古で試して,最良の技や戦術で試合に臨むわけですが,これも自分の頭でものを考える力を養う良い機会です。・・・変化の少ない江戸時代なら,誰か偉い人の言ったことを信じて覚えるという学問でもよかったかもしれません。しかし大きな変化の時代には,すべての事柄を疑い,自分で考えて実証するような学問,実学が何よりも大切だと福澤先生は考えられたのです。
いまもまた大きな変化の時代ですが,そういう時代だからこそあわてずに,じっくりと学問に専念してください。大学においてのみ,あるいは慶應義塾大学でしかできないことに没頭してほしいと思います。
⇒上記の内容は、さすが歴史を感じさせる重みのある内容である。
私のワガママで早稲田を受けさせることになったが、せめて“早稲田か慶応の好きな方を受けろ”と忠告したら、もっと違った受験になっていたかもしれない。次男は早稲田よりも慶応に興味があったようだ。早稲田を受験させたことに後悔はないが、反省がある。勿論、両大学とも“超”難関大学だから半端な勉強で合格しないが、何事も“やる気”が肝心である。