会長の”次男の大学受験”                                                                第2章  潮時 6

きっかけ その2

 河合塾(予備校)では、長期連休になると必ず集中講座を開く。夏期・冬期、そして春期である。1週間限定で、1単元(90分)*5回(たしか13,000円/科目)。最近の流行語ではないが、まさしく
“いつやるの。。今でしょ!

そう思った私は、次男の背中を押した。
(私)  おい、今度の春休みは河合塾の春期講座を受けろよ。費用は父さんが何とかするから
(次男) そうだね。
(私)  国語も英語も、数学も理科も。。。
(次男) そんなには無理だ。
(私)  だって、どうぜ勉強しないんだろう。
(次男) そうだけど。。
(私)  皆がやらない今、頑張れば国立に受かるかもしれんぞ。受かれば授業料なんて安いものだ。それに兄ちゃんみたいに浪人する気はないんだろう?
(次男)  無い。
(私)  そう、はっきり言うなよ。
(次男)  だって、勉強嫌いだし。。
(私)  じゃあ、残り1年だと思ってさぁ。。
(次男)  物理と化学(理科)を重点にやるか。。。
(私)   国語も社会もやったらどうだ。
(次男)  それは要らない。理系なのでセンター試験だけだから夏でも間に合う。
(私)   そうか。。。じゃ夏期にするか。
(次男)  そうだね。
こうして、次男は理科の春期講座を受けた。



やがて春休みも終わった頃、
(私)  おい、春期講習はどうだった。
(次男) 化学の先生の教え方が上手くて、本当に良く分かった。“そういうことだったのか、簡単じゃん”と思った。もっと早く分かれば。。。
(私)  そうか、それは良かったなぁ。それで物理は?
(次男) 大したことなかった。基本をやってくれただけ。本当は、その後が聞きたかったが。。
(私)  そうか、仕方ないな。やってみないと分からんからな。

学年順位 物理 化学
2年1期 6 20
2期 16 104
3期 10 13
4期 12 26
5期 28 42
3年1期 45 77
2期 8 3
3期 29 27

表が次男の物理・化学の成績順位(126人中)である。2年生では物理に比べ化学は悪かったが、3年生2期からは化学の方が良くなっている。
“たった5回の講義が、その後の景色を変えた”
たぶん“肝”になる部分が理解できたのだと思う。私も学生時代、1つのことが理解できたお蔭で今まで分からなかったことが全てクリアとなった。目の前が急に開けた。という経験があるが、次男もその状態だったと思う。これ以降、成績が急上昇することになる。
 そして、本番のセンター試験でも化学は89点(100点満点)と全教科中最高点であった。
これが次男の“きっかけ2”である。意味するところは下記である。
 正のスパイラルアップ(回転)が始まった。

続く



プラス1 豊田(トヨタ)創業者の言葉
 トヨタ自動車は今や日本を代表する大企業である。先日、雑誌を読んでいたら創業期の言葉が掲載されていたので紹介する。


 豊田喜一郎(自動車創業)   “父親(佐吉)の回想録”

私の父は
学問があったわけではありません。
唯一の強みは
一つのことを信じ抜いたことです。
「日本人には隠れた力があるんだ」と。
自動織機は,
その信念が産み落としたものです。

父佐吉が「信念の人」であったことを評した言葉だが、喜一郎はまた、
「父は頭の人ではなく、努力の人であると感じた。この点では、われわれは遠く及ばない。発明は結局努力の賜物である。」
と述べている。因みに、豊田佐吉は1891年に豊田式木製人力織機を皮切りとして発明に明け暮れる。佐吉が歴史に与えた影響は、手織機による問屋制家内工業生産を行っていた農村の綿織物業に対し、佐吉考案の小型力織機が普及し“小工場”へ転換するきっかけを作った点にある。一方で大紡績会社が合併などにより独占的地位を固め、輸入の大型力織機で綿織物をさかんに生産し朝鮮・満州市場への進出を強めた。この結果、1909年(明治42)に綿布輸出額が輸入額を超えるという歴史の1ページを創りだしている 〜写真は究極と言われるG型自動織機〜


 
 豊田英二(元:トヨタ自動車社長)   “喜一郎(叔父)への回想録”
豊田に入社しようか迷っている時、喜一郎から言われた。
「自動車が本当にやれるかどうか、誰も決められるものではない。
しかし、もう俺たちは走り出しているんだ。
お前も技術屋なら、俺と一緒に良い夢をみようじゃないか。」
そう言われて、豊田に入社することを決めた。



私には、豊田英二さんとの思い出がある。入社して間もなく、トヨタグループ研究発表会に会社代表で説明することになった。豊田中央研究所講堂で15分発表した直後、質問時間となり会場が明るくなると、当時会長だった英二さんが最前列に座っているのが分かった。一瞬“どきっ!”をしたのを覚えている。
何か質問がしたい様子だったが、結局 他聴講者に譲ってくれたようだ。
やがて休憩タイムとなった。会場が“ざわざわ”してる中で、英二さんが外へ歩いていこうとすると、無言のうちに、そして実にスムーズに道が出来ていった。誰一人言葉を掛けてわけでもなく、指示したわけでもない。まるで、無人の露払いだった。
 実に不思議な光景だった。
 立派な人というのは、こういう人のことをいうものか。
と始めて思った。こういう経験をしたことは技術屋冥利に尽きる。