会長の”次男の大学受験”                                                              第1章  全ては”まさか”から始まった。 6      

河合塾 1

 もし、次男の三重大合格に対して貢献できたことがあるとすれば、高校入学と同時に河合塾に行かせたことかも知れない。“普通科に行く=大学に行く”訳だから、本人にやる気があろうが無かろうが、受験勉強は避けて通れない。高校入試がまだ終わってない3月初旬に、ダメ元で話しをした。

(私)  「お前さぁ。高校1年生になったら河合塾に行かないか」
(次男) 「えっ。」
(私)  「だって、どうせ大学受験するんだろ。だったら早い方がいいじゃないか。」
(次男) 「だけど、阿久比から帰るだけで50分かかるし、それから塾は...」
(私)  「そうだなぁ。ちょっと大変か。。」
      ・・・・・
(次男)  「まぁ、考えておく」
次男の返事には少々驚いた。“1年生から勉強する気なんか絶対に無い!”と想像していたからだ。
 “この男、一体何を考えているんだ。。。”

 今時、塾は沢山ある。名古屋に通わせることも考えた。電車に乗っている間に英単語や古文の暗記ができるし、何といっても他校の生徒とふれあい刺激になる。(遊んでしまう心配も大いにあるが。。) 種類も沢山ある。河合塾駿台代ゼミ・東進。。。 それぞれ特徴があるし宣伝も実に上手い。予備校の比較は以前“今時の大学受験”で書いたので割愛するが、下記が予備校のキャッチフレーズである。

  河合塾 “すべては一人ひとりの生徒のために
  駿台  “第一志望はゆずれない。”
  東進  “夢は大きく、目標は高く”
  代ゼミ “志望校が母校になる。”
どれもこれも素晴らしい。ちょっと言葉を変えれば、仕事や会社のPRにも使える。

さて、期せずして半田東という“家から近い高校”に入学できた強みもあり、刈谷河合塾に行かせたかった。これは次男の選択ではなく私の判断である。近いことは自由に使える時間が増える。場所は刈谷高校のすぐ裏にあり、刈谷高校刈谷北高校の生徒が対象である。(そのために開校したから当然)、
 いよいよ、何時からそして、何を習うかの相談となった。
(私)  「とにかく1年生から行かないと駄目だ。お前は出遅れているんだ。」
(次男) 「・・・」
(私)  「1年の授業は英語と数学しかない。2つとも受けてみろ。」
(次男) 「ということは、週2回 通うの?」
(私)  「そうだ。いいじゃないか。どうせ勉強しないんだろう?」
(次男) 「俺はクラブをやりたい。できればテニス。」
(私)  「できるさ。どうせ19時20分から始まるんだ。雨が降っていたら母さんが送って行ってくれる。父さんだって刈谷に会社があるし。。」
     ・・・・・
(次男) 「いいよぉ。。。じゃ。 やってやろうじゃないか2つとも

たぶん、次男は“まさか”の半田東合格に希望と不安が入り混じっていて、私の提案に耳を貸したのだと思う。タイミングも重要だった。1学期がスタートした後や2年時ならば、おそらく拒絶したと思う。
 こうして、河合塾のスタートが切られた。

                続く


プラス1 “あのころ” 宿題
 今でもあると思うが、私が小学生の時も“夏休みの友”があり、盆過ぎになると憂鬱な日々が待ち構えていた。すぐにできる計算・漢字などはまとめてやれるけれど、読書感想文とか自由研究・ポスターの類は、すぐにはできず苦労した。本を読むことが大嫌いな私は“あとがき”だけ読んで、適当な文を作り原稿用紙を埋めていたのを思い出す。先生も承知していて、“とにかく提出させること”が指導の1つだったと思う。
しかし。。。である。何年生の時かは忘れたが、中間登校日に女の先生が変なことを言った。
 
「宿題も大事ですが手伝いも大事です。宿題は出さなくても良いので、父さん・母さんの言うことをしっかり聞いてください。」

私は、この一言に驚いた。
“どういうこと? 宿題出さなくても良い。。。 やったぁ!”

すぐさま両親に話すと、やはりびっくりした様子だったが、後日 父親から
「お前は宿題はきちんとやって出せ。先生も言ってだろう。親の言うことは聞けと。。。」

(私)  「何で。。。」
(父親) 「いいから、いつもの通りにやるんだ!」
(私)  ・・・・

 あとから母親から聞いたのだが、ある親から先生に“泣き”が入ったらしい。当時の我まち東浦は織布産業が全盛であり、猫の手も借りたいほど忙しかった。だから、せめて夏休みだけでも自分の子供を当てにして、兄弟の面倒や店の手伝いをさせたのだろう。そして、残りの時間は宿題よりも仲間と遊ばせたいと先生に頼んだという。親として“尤もな話し”である。

当時は中学卒業して織布産業で働く割合も多かった。大学に行くのは経営者の子供くらいで、勉強よりも体が丈夫で友達付き合いの良い子供に育って欲しいと、多くの親は思っていたに違いない。あの頃はそれで良かった。金持ちには金持ちの、貧乏人には貧乏人の生き方があった。実にシンプルだった。