“いまどき”の大学受験(最終章)                                                                      賽(サイ)は投げられた   その7

その7 京都大学-1 (超えていけ、父を!)
 早慶の試験が終わると京大までは8日間。“この間の過ごし方で合否が決める!” などという言葉に説得力があるとは思わないが、少なくとも今まで蓄積した知識・解法テクニックは持続しないといけない。何しろ、自己ベストのセンター試験をもってしても、合格予想はB判定(60%)であるから、余裕などはあるわけ無い。スポーツで言えば、予選・決勝と自己ベストが出ないと合格(勝利)に届かない厳しい現実である。


2月20日
 どうも気が抜けているように見える息子に対して、少しお説教っぽい忠告をした。勿論、いつもの壁貼りメッセージである。

①今はブラッシュアップ(歯磨き)の期間である。虫歯を予防して、汚れを毎日取って、どんな料理が来ても、おいしく食べることが出来るように、美しくしておくこと。(牙は十分できている)
②慶応・早稲田の問題を2回、清書して覚えること。
(何となく、幸せになれる気がする)
ここで、“早慶の問題をもう一度やってみろ”と書いたのは、東大・東工大受験者の多くは早慶を受けるだろうが、京大(関西)であればその割合は少なく、もし類似問題が出れば差をつけるチャンスと思ったからだ。出来・不出来は抜きにして、すでに息子は早慶を受け終わっている。やるなら今をおいて他にない。


2月23日
 いよいよ、今日は京都に出発する。聞けば、予備校に出向き“気合”をもらってから行くのが“慣わし”らしい。昼食を世話になった吉野家で食べて13時頃の新幹線で行く予定が、話(雑談)が弾んでしまい、電車の中で弁当を食べるという羽目になったらしい。
 “いまどき”の受験生も、“げん”を担ぐのは昔と同じである。

2月25日
 夕方になって息子が無事に帰ってきた。今回は、「できたか?」とは聞かなかった。というより聞けなかった。息子から喋るのを待っていた。
 しばらく無言のまま夕食を食べていたが、やがて話し出した。
 (息子)  それにしても、親同伴でホテルに宿泊している受験生が沢山いたのはびっくりした。
 (私)   本当かよ。
 (息子)  女子ならまだしも、男子にも母親がついていたな。中には、両親揃っているのもいた。
 (私)  マジで。 父さんも、いい加減 親バカだと思っているが、さすがにそこまではしないな。
 (息子) 俺だってイヤだよ。親と泊まるなんて。
 (私)  だよな。
      ・・・
 (私)  ところで、出来たのか。
 (息子)  ・・・

 息子の性格からして、多少自身はあるのかなと感じた。
   ・・・
 (私) ちょっと父さんに問題見せてみろ。
     《数学と英語の問題を見た(これは前述)》

 (私) 数学の6番は京大らしいな。出来るか(満点)、否かだ(0点)。
 (息子) 俺は、全く手が付けれなかった。1番の問題に時間がかかって、気がついたら20分経ってしまった。残りの問題を必死でやった。
 (私) それで、できたのか。。
 (息子) よう、わからん。 でも、怖くて答え合わせはしたくない。
 (私)  そうか。
      《受験生の心理なのか、それとも息子の性格なのだろうか。。。》
 ・・・・
 (私) こんな長い英作文、お前できたのか?
 (息子) 書いたよ。
 (私) ヘェー  
 (息子) そういえば、Ⅱの和訳は意訳した。これが合っていれば、結構いけるかもしれんな。
  《最近、気合が足りないように見えた息子だったが、中々凄いものだ。》

 (息子) 俺の隣に座っていた奴は、たぶん落ちたな。
 (私)  なんでだ。
 (息子) だって、化学の試験が終わった後でワケの分からんこと喋っていた。
      大受けるんだったら、もっと勉強してから来い! 
 (私)  へぇー。そうなんだ。
      ・・・
 (息子)  あーあ、京大受からんかなぁ。
 そして、この日の会話は終わった。さすがに疲れているようで、すぐに眠ってしまった。驚いたというか、意外だったのは「京大受からんかなぁ。」の一言である。控えめ、もっというなら「良いことは言わない」慎重派の息子としては、「俺は出来た!」といいたいのである。今まで受験した大学の中で、初めて口にする言葉であった。

 京大の試験が終わった段階で、早慶のダブル合格が確定していたので、中期試験(3月8日)の大阪府立大学は辞退した。大阪に就職するなら別だが、全国区の早慶に合格した以上、受ける意味がなくなる。そして(前回述べたように)慶応へ入学金を納めたので、京大か慶応と私は思っていたが、息子は、後期試験(3月12日)の九州大学を受けるか否か悩んでいたようだ。(写真は九州大学
 
そして、この日から3月10日の合格発表日まで、会話の締めくくりはいつも同じだった。
  (息子)  「京大受からんかなぁ」
   (私)  「いいじゃないか、慶応受かったんだから」

                   続く

プラス1 入学式 式辞(抜粋) 松本総長
 本日、疎水の水面に桜映ゆるこの「みやこめっせ」にご参集の3,031名のみなさん、京都大学に入学おめでとうございます。みなさんの長く厳しい勉学が見事に実を結びましたことに敬意を表します。・・・
 国を挙げて救援、復旧活動が進められ、復興も検討され始めたこの時期に大学に入学するということは、生涯忘れることのない記憶として残ることでしょう。そして、今被災地を中心に日本人が互いに助け合い、整然と秩序ある行動をとり続け、日常を取り戻そうと努力している姿は、日本人が尊重してきた「和」の精神を世界に向けて示すものとなっています。そこで示される自助と共助は日本人の誇りです。被災地から離れた京都においても、被災地の苦難を分かちあい、長く心を寄せ、復旧と復興に積極的に支援していきたいものです。・・・
 みなさんの多くはこれからまだ50年以上生きていくことになるでしょうが、その半世紀先まで見通せる人間というのはそう多くありません。京都大学に入学のみなさんには、遠い将来を見通し、未来を創造できる人間をぜひ目指してほしいと思います。将来を見通すためには学術が積み重ねてきたデータの蓄積を咀嚼する能力が必要です。
・・・・
 最後に、みなさんに江戸時代に高い精度をもつ「大日本沿海與地全図」と呼ばれる実測地図を作製した、伊能忠敬の心意気とその言葉を紹介したいと思います。伊能忠敬は50歳で隠居し、心機一転し、19歳も年下の高橋至時(よしとき)の門下に入り、西洋天文学、数学、西洋暦学を学び、正確な測量技術を確立し、55歳の1800年から71歳の1816年まで17年間全国各地を測量し、日本国の実測地図のデータを集めました。そして、目にした書物によると伊能忠敬は「精神の注ぎ候のところより自然と妙境に入り、至密の上の至密をも尽くし候」という言葉を残したそうです。その大意は、一点に精神を集中すれば、勉強や仕事に自然と興味が湧き、最上の結果に至ることができるということです。みなさんも自らの集中すべき一点を見つけ出し、そこで刻苦精励されることを願います。そして、健康に留意し、様々な自分の可能性に目を向け、力一杯活躍され、誇りある京大生となられんことを祈念し、私の入学式の式辞とさせていただきます。


プラス2 入学式における配布資料から(大学の歴史を知ろう。 木下初代総長)
(創立50周年座談会)
 ・・その当時、伝えるところによれば、木下 初代総長は、東京の学界において志を得ないものを集めるというお考えでありました。・・・そこに何か1つ、東京の帝国大学に見られぬ、新たな学風というものを立てようという気分であったと察せられます。とにかく東京の方では学問というようなことよりも、何か、直ぐに間に合うもの、法科について言えば、役人を養成するというように、どうもなっていたようです。然しこちらでは、学問というものを、本当の学問というものを研究するという風を立てる積もりだと伺ったことがあります。・・・ 何れにしましても、自由なるところの学問がやれるようにしようというお考えでありました。