(長坂) 旅は道連れ(九州)  その5

日本史“弥生時代”が理解できた。 吉野ケ里遺跡


 写真は佐賀県にある吉野ヶ里遺跡(よしのがり)に立つ見張り台である。
私の中では、日本史は奈良時代(710年)から始まっており、それ以前は全く理解できていかなったが、今回の見学で鮮明になったことが随分とあった。それは、

1)弥生時代はキリスト誕生のころであること。(紀元前500年〜後300年)
2)この写真の右側には首長を中心として会議場があり、戦争の相談・米の収穫時期を決めていた。まるで戦国時代の軍議さながらの立派な小国家に驚くばかりであった。そして、中国もヨーロッパもそうであるように、会議には必ず“占い師”がいた。
3)世に有名は「卑弥呼」は弥生時代(後200年)に登場した。正直、もっと後(古墳時代?)と思っていた。

という訳で、私の歴史知識は(縄文→弥生→ヤマト政権→飛鳥→奈良)は向上したようだ。


因みに“弥生”の由来は、東京都本郷弥生町縄文土器とは違う土器が発見されたことによる《1884年》。もし、これが刈谷だったら“刈谷時代”となっていたに違いない。(なんちゃって!)

 今度は、静岡県の登呂遺跡に縄文時代を勉強しに行こうかな。。 


続く


プラス1 邪馬台国の謎  近畿(大和)or九州説 
この話も漠然と知っていたが、その根拠が「魏志倭人伝にでてくる里数(日数)の読み方だということを知って、ちょっとロマンがなくなった。私の中では、少なくとも「卑弥呼」の証拠となる遺品が両方で見つかっていると思っていたが、どうやら、下記文章の解読がキーらしい。


韓国をスタートし「水路を(南に)二十日」。。。

九州説は、南に行った場合。 (この吉野ヶ里も候補の1つ。)
近畿説は、南は誤記で東とすると全て辻褄が合う。 (ヤマト政権へと繋がっていく)


過去は戻れないので、後は証拠となる材料がでることを待つしかないが。。。