会長の”ロシアの魅力”                       その2:サンクトペテルブルク(前)

 まずはサンクトペテルブルクを紹介する。
1703年ピョートル大帝がロシア近代化を狙いバルト海に面した港として築いたもので(いわゆる不凍港)、ロマノフ王朝300年の繁栄を誇った。地理の上では、ウラル山脈以東をシベリア・西をヨーロッパロシアと呼ぶように、ここは人も風景もヨーロッパである。私の中にはソ連のイメージがあったから(味気も素っ気もなく、何となく暗くて近寄り難い)、街並みを見たときは「カルチャーショック」を受けた。そして、観光地の豪華さに2度目のカルチャーショックを受けた。これが、前述の「人生観が変わった」理由である。


(夏の宮殿)
 上記写真はピョートル大帝「夏の宮殿」と呼ばれ、北方戦争(スウェーデン)の勝利を祝って建設されたものである。左右の階段部分は人口滝で、周りには金色に輝く銅像立っている。滝の行き着く先はバルト海フィンランド湾)で、大帝を始め貴族たちは船で宮殿前から出かけることができた。その豪華さに驚くばかりである。現在宮殿内は広い公園となっており結婚式を挙げるカップルも多い。私が行った6月は最も過し易い季節であり、ヨーロッパを始め観光客で大混雑していた。


エカチェリーナ宮殿)
ピョートル大帝が妃エカチェリーナのために建てたもので、青い塗装色が似合っている。建物は300mの幅があり、この中には壁一面を琥珀で装飾した「琥珀の間」と呼ばれる豪華絢爛の部屋があり、要人を招待していた。ロシアの権威を象徴するのが目的の1つらしいが、素晴らしいの一言に尽きる。
 歴史の話しになるが、伊勢の船頭“大黒屋光太夫”は漂流しロシア人に救われた後、宮殿内の「大広間(写真)」でエカチェリーナ2世と謁見し(1791年)日本に帰国している。1791年の日本といえば、浅間山が噴火し天明の飢饉・寛政の改革の時代である。大黒屋光太夫太夫がどんな目でロシアを見ていたのか。。。。興味ある人は井上靖の「おろしや国粋夢譚(こくすいむたん)」を読んでください
          後半に続く。